昭和44年05月16日 夜の御理解
私が北京におりました時代、いわゆる支那の人の門の扉に殆ど同じ様な事が、大きく黒塗りの上に赤で字が大きく大書して、両方の門にしてありますが、その中に一番多いのは、徳を積む家に余慶、余慶というのは余分の余、慶はこの慶びごつの慶びですね、慶喜の慶ですね、慶喜将軍の慶喜、積徳の家に余慶ありと、徳を積むということね、徳を積む家には必ずあのうそのう慶びごとがあるという訳です。
これはもう確かにそうだと思いますね。合楽の例えば段々おかげを頂いて、そしてそのうおかげの雫のようなものが慶び事に使われる、又は奉仕の為に使われるまぁ言うならばね、お供えなんかでもね、もう自分のお家のいうなら、そのうおかげを頂いておるそのう雫のようなもの、溢れる様なもの、それが奉仕されるまぁそれでもみやすいようですけれども、実を言うたらまだやっぱ難しい、欲というものは限りがないですからね、金が溜まりゃ溜まるで又、それこそ雫でも出さんと言う様になって参りますけれど。
けれども私信心させて頂くようになったら段々おかげを頂いてね、例えば神様への奉仕お供えでも、そのう有り余ったものが喜びを添えられて、例えば奉仕されたりお供え出来たり、するようにならなければいけないと思うですね。でそういうのをやはりお初穂というて、例えば本当に僅ですけれども、真心を現してこの理念のその一部を、真心としてお供えをする訳です。又はそれが人の喜びの為に、又は人が助かる事の為に、そのそれがなされるそれはもう雫のようなものでもいいね。
もう絞りきってと言う様なものでなくても、ちょっとすればもう雫がスタスタ落ちる様なその雫をを人の助かる事の為に、神様の喜んで下さる事の為に奉仕が出来るいうて、そう言う様なこれはもう実に楽な事ですけれども、なかなかそれも出来ない人があります。出来ない事にはまぁ身の贅沢の為なんかには使ったり致しますけれども、なかなかそういうことになかなか使えないもの、信心させて頂くものはそれがもう、ふんだんに当たり前の事として出来る様に、一つおかげを頂かにゃいかん。
まぁ現在の合楽の方達の場合が、まあどっちかちいうならまぁその絞りきって、おかげを頂いていきよると言った様な感じですけどね。けれどもねこれはねもう徳じゃなくてからね御神徳です。ただ徳と御神徳は違う、ですからね例えば今日2正義さんが出て参りましてから、伊万里の梅里先生が見えて庭を全部作り直してもらいよる、それでご承知のようにあそこにゃ、もう本当に名石と言う様な石を沢山集めておりましたから、まぁ見事な庭が出来る事であろうと思います。
それでまぁ10人位見えてもう10日位みえて、で後まぁ4、5日位見えるらしいけれども、私は本当にあのうそう思いました。まぁとにかくまぁあぁいうそれこそ一つ一つの石が、庭石として見えるような石ばかりを集めておりますからね。それを梅里先生の手にかければ、なら見事な庭が出来るだろうとこう思うんですね。あれがどうでしょうね正義さんが、あのねあれをここへお供えしてね、そして余ったここで使っておるじゃんのうで庭を使ったら徳を受けると言う意味なんです。
けれどもだからそういう汚い事ちいう訳じゃない、それは今ここでみんなお供えしとるのは、みんな砕石する積りじゃったちいうですからね、砕石と言うのはみんな細かく割ってしまう石だと、ここに引き取る石は全部、それでもやはりあの梅里先生の手にかけてから、あれだけ見事な石になった訳ですけれどもね、あれが名石だったらもっと素晴らしい事だろうとね、ですからこう言う様な時ですね、私共信心させて頂いてもう現在のごたるお徳を受ける事に一生懸命ですからねここは。
まlだそげん絞りきるようなおかげを頂いとるのはおりませんもん、あの雫でおかげを頂けれるのはおりませんもんも、本当に絞りきるような所になら通らせて頂いて、まぁお徳を積ませて頂く、いわゆる御神徳を受けるための信心が出来ていきよる。だからその正義さん達の生き方は、ありゃ積徳の上に慶びありであれでもいんですよね、それけんちいうて惜しいじゃなくて、神様とじゃけんでよかよかどうせ打ち割ったっちゃ、割石にするとじゃけんで持って行って下さい、と言う様な事ですからね。
その代わり運賃やらはちゃんと計算に入れてからお金を取っとりますから。だからそれでもです例えば汚いなぁちゅう事がとこう、本当の信心をする者は思いますけどね、けれどもお金が出来ると出来る程そげんなって来るです人間な、だからあげんなる前に本気出して、本当な信心ば頂いとかんなんということです。けれどもならそれでなら、言うならば雫のようなものですからねここに来とるのは、ですからそれでもやはり徳を積む事は出来るね、そう言う様に喜びあってと言うことになるわけですから。
まぁ一つの例ですけれどもですから私達がですね、本当におかげを頂いてもう本当に一からもう十までですね、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、神様のおかげでここまでおかげを頂いたと、いう実感になって来るとですね。とてもそげな雫なもんで供え出来んです。とてもこの神様の良かつから持って行って下さいち、言う事になって来るんですよ。うちはもう余ったって出来ます、それで結構なものが出来る。
これはもう御神徳ということになる訳ですよね。徳を積むということそれは、本当にそういうおかげを頂かせて貰わにゃんですね。それこそ雫で人が助かるような、雫でそのうそこに徳が積めれるような、おかげを頂かなければならんと同時に、もう一つ向こうにね御神徳を受けると。いう神様のご信用を受けるような徳は、例えば雫のようなものじゃいけん。やはり真心の結晶でなからにゃいけない。
と言う事になるんですよ。ですからその辺の所をやはりどうしても分からせて頂いとかにゃいけないね、それでもあの私達はこうなんですかね。信心ちゃまぁ人にお供えでもさせて貰うならば、もう良かつか選ってこうする事がお供えとこう思うておりますから、悪かつからでもいいですよ。例えばお百姓さんがですよもう市場にも出されん。だから勝手な方で頂いて下さいなんて持って来て下さるね。
だからこれがいけんのじゃない、それでもそれは徳は受ける事にもなるね、雫でこうお供えをするんですから、けれどももう出来たつに一番ばんぶつをからと、お供えをする時にゃこういう一番綺麗なつからと言う様にですね。そう言う様な信心が出来、そういう信心が大きくなっていくとです、御神徳なんです。だから今日私その事を頂いてですね、ははぁ只積善の家に余慶ありと言う様な事は、信心がなくてもです。
そういう例えば神恩と言う事を分からんでもです、奉者の心喜捨の心ね、奉者喜捨というのは喜んで捨てると言う事、喜んで捨てると言う様な心があればですね、家の徳を積んでいけると言う事ですね。けれども金光様の御信心はそういう徳、以上の徳ですいわゆる御神徳を受けたりね、そこんところに限りなく美しくなっていこう、限りなく美しゅうなりましょうやと言う事になる訳です、そこんところに御神徳を積む稽古をさせて頂く、それが大体は金光様の御信心だと思うのです。
どうぞ。